一葉の写真シリーズ

No.01 1997年6月号 Vol.283
かりんとう、落花生、甘納豆など、昭和20年代の当時は、庶民の手にはまだまだ入りにくく、開店したばかりの菓子店にも「警官が来て整理するほどの盛況ぶりだった」。坂巻菓子店(現ボングー)は、当時「栄町3の1番地」にあった。
写真提供:坂巻政次氏 昭和28年11月13日撮影

No.02 1997年7月号 Vol.284
鋳物業従業員の成田山参拝
何事にも豪勢だった川口の鋳物業。写真は、一工場で講をつくり、従業員のほか、木型、砲金、仕事師等の下職などを連れ成田山を参詣したときのもの。川口から汽車で行き、宿での一泊を毎年恒例としていた。「白井鋳工場」と入った印半纏を着た従業員にも笑顔が見られる。
写真提供:白井博氏 大正11年ごろ

No.03 1997年8月号 Vol.285
中野屋総本店
一文字瓦に白漆喰、「御茶処」と書かれた木看板は、慶応元年創業のこの店の歴史が伝わってくる。電気看板は、当時としてはまだめずらしく、照明が入ると、富士山をバックに小舟で海苔取りする影絵が映り出された。現在は段ボールで送られてくる御茶も、当時は茶箱が当たり前だった。本一商店会通りにあった「中野屋」は現在、川口銀座通りにある。
写真提供:小熊嘉兵衛氏 昭和31年

No.04 1997年9月号 Vol.286
狩野川台風
「記憶として残さなくては、と家族が止めるのも聞かず、夢中で撮影した」(小川長四郎氏)。
川口では、明治43年以来の48年ぶりの大洪水を出した狩野川台風。電灯は3日間、電話の復旧には1ヶ月もかかった。床上浸水26,798戸、床下浸水2,457戸、2人の死者も出た。写真は、川口本町大通りと中央道路が交差する辺り。
写真提供:小川長四郎氏 昭和33年9月27日

No.05 1997年10月号 Vol.287
誰かわかりますか?
大久保彦左衛門、一心太助、雪之丞、助六、大岡忠相、紀伊国屋文左衛門、弥次郎兵衛・喜多八などの様々な出で立ちは、第3回川口産業観光まつりに参加した川口銀座会(現川口銀座商店街振興組合)の商店主が仮装したときのひとこま。この後、会場の中央公民館から本町大通り、川口銀座通りを練り歩いた。
このまつりは、各商店会などの仮装、踊り等が披露されたほか、ときには米軍の軍楽隊による演奏なども行われたという。現在も続いている「川口市特産品展示会」と併せ一時期開催された。
写真提供:川口銀座商店街振興組合 昭和36年9月15日

No.06 1997年11月号 Vol.288
昭和天皇行幸時記念撮影
昭和天皇が陸軍特別大演習で埼玉県に行幸した際、県知事から天皇陛下への献上品の釣灯篭を製作した田中鋳工所での記念撮影。
灯篭の製作では、専用工場を新築、また、こしき(溶解炉)、たたら(送風機)を新たに入れ、その大役の任に当たった。
直接従事した工場関係者のほか、川口神社宮司、警察署長、市会議員、官吏など様々な顔ぶれが見られる。
当時は、荒川の土手から工場(栄町1丁目)が見えたという。
写真提供:(株)田中鋳工・田中博氏 昭和9年

No.07 1997年12月号 Vol.289
関東大地震時の避難時風景
今から74年前の大正12年9月1日に発生した関東大震災を知る人も少なくなった。
この写真は、当時の川口町駅近くの赤羽寄りで、東京から汽車で避難してきた人々や川口から余所へ避難しようとする人々を写したもの。列車の中に入りきれず、屋根に上った人も足の踏み場もない鈴なり状態。当時の混乱ぶりが伺われる。
写真提供:大熊不二氏 大正12年9月

No.08 1998年1月号 Vol.290
昭和30年当時西川口駅周辺
西川口駅開業は、昭和29年9月。写真は、同駅開業当時の東口・西口周辺を撮ったもの。上り階段には、屋根がなかった。当時は、田園風景が残る片田舎の印象さえある。
写真提供:松澤稔氏

No.09 1998年2月号 Vol.291
産業道路と八間道路の交差点
昭和18~19年当時の川口駅近くを通る産業道路と八間道路が交差したところ。写真は北へ向かう道を映し出す。
左へ行くと踏み切りがあり、右手前角には「加藤金物店(写真)=現(有)加藤酉男商店」があった。
雨が降った後か、泥んこ道になっている。道路の舗装は昭和30年ごろから始まった。
写真提供:加藤酉男氏

No.10 1998年3月号 Vol.292
川口町広小路に提示された選挙用の捨て看板
昭和8年4月に川口市制施行、6月に川口市議会が召集される。
第1回市議会議員選挙は、投票日が5月20日、本会場の川口第1尋常高等小学校(現本町小学校)を含む計4か所の投票所で実施された。48人が立候補、30人が当選した。トップ当選者は311票を集めた。
写真は、川口町広小路(現在の川口本町大通りと本一通りが交差する辺り)に掲示された選挙用の捨て看板。
写真提供:白井博氏

No.11 1998年4月号 Vol.293
昭和7年の歳末風景
現川口本町通り沿い。通りは、川口駅(当時は川口町駅)に続く。右手には、旧武州銀行川口支店(現マンモス交番向かい)が見える。それぞれの商店には簡素なものではあるが門松が立てられている。正月を迎えようとしている行き交う人の様子にも心なしか暮れのあわただしさが感じられる。
写真提供:川口市

No.12 1998年5月号 Vol.294
明治39年ころの千葉鋳工所(現在の千葉鋳工所)
鉄を溶かすコシキ炉は修理し易いように上中下の3段、風を入れる羽口は2個、風圧を平均にする風箱はない。材料投入台は中段まで出来ている。当時の銑鉄、コークス、取鍋、滑車等、また、真中には栓止め(溶解の親方)、炉の影には技師の姿が見える。
写真提供:千葉和久氏

No.13 1998年6月号 Vol.295
ミス川口コンテスト 候補者パレード
昭和31年、川口商工会議所主催で行われたコンテスト。
胸にナンバーをつけた候補者55人は、毎週日曜日(7/1・8・15)に宣伝カーで市内をパレード。審査会では市民などからの投票数を踏まえてミス川口、準ミスが選ばれた。
写真提供:川口商工会議所(撮影者:小池正一氏)

No.14 1998年7月号 Vol.296
元郷の東一印赤味噌醸造元 大熊武右衛門商店倉庫前
最上赤みその20貫樽を積んで東京(浅草方面)へ向かうトラック。後のレンガ造りの穀物倉庫は、明治40年に建てられたもので、現在でも倉庫として利用されている。
写真提供:大熊武右衛門氏 昭和10年ころ

No.15 1998年8月号 Vol.297
出征風景
当時、川口駅東口前から南方へ伸びる「善光寺通り」の両側には、鋳物工場などが軒を並べ、朝夕には、多くの職人が行き来した。
この善光寺通りを出征兵士が川口駅へ向かう。人々は、兵士の名前の入った幟(のぼり)や日の丸の旗を持って送った。
写真提供:佐山茂夫氏 昭和17年ころ

No.16 1998年9月号 Vol.298
青木町の和竿製造業者
川口の青木地区から鳩ヶ谷にかけては、釣竿の大生産地だった。芝川河川敷に自生する布袋竹が釣竿に適し、また、大消費地の江戸にも近かったことなどによる。昭和30年ころには全国の釣竿生産額の9割近くを占めたが、後にグラスやカーボン製の竿に押され、今日、製造業者数は20数件ほどになっている。しかし、「川口和竿」は昭和53年に埼玉県伝統工芸品に、平成3年には国の伝統工芸品に指定され、現在、埼玉県釣竿工業連合組合(当時組合長・山野一男氏、現在は増田健治氏)などが中心となって、後継者育成の実地講習を行い、その再起を図っている。
写真は250年余りの歴史を持ち、現在も製造を続ける業者の昭和初期の風景。冬季に仕入れた材料の竹(矢竹など)を庭先で2~3ヶ月乾燥させている。
写真提供:山野雅弘氏 昭和10年ころ

No.17 1998年10月号 Vol.299
西川口駅西口前
昭和29年9月の開設後、急激に開けた西川口駅西口周辺。当時は、まだ木造の店舗が数多く建ち並んでいる。
「子供のころだったが、蒸気機関車から出る白い煙が印象的でね。匂いも好きだった。ブリキのおもちゃから、本物を間近で見られたからでしょうか」(小野田芳雄氏)
「駅前で商売(中華店)を始めたのが昭和35年。駅を少し離れると、田圃が広がっていましたよ。蛙の声も聞こえて来たような気がします」(畠山寿氏)
写真提供:畠山寿氏 昭和35年ころ

No.18 1998年11月号 Vol.300
川口駅東口前にあった物産陳列館
川口鋳物業者の本格的な組織は、明治38年に設立された「川口鋳物業組合」。その後、同組合は、大正3年に「川口鋳物同業組合」、戦後現在の「川口鋳物工業協同組合」へと改組、その歴史は、90余年に及ぶ。
写真は、現在川口駅東口前にある川口産業会館の地に、組合事務所と併設されていた「物産陳列館」。同館では、組合員の鋳物製品をPRするほか、全国鋳物展覧会なども開催された。
写真提供:川口鋳物工業協同組合 昭和10年ころ

No.19 1998年12月号 Vol.301
青木町公園総合運動場周辺
写真の中央奥手には、昭和34年11月に完成した児童文化センターの天文台が見える。開館当初から口径15cmの屈折望遠鏡を備えて、毎週木曜日の夜、天文観測を実施し、市民の宇宙に対する興味を喚起してきた。(プラネタリウム室は、昭和46年の設置で、この写真にはまだない。)その右側には、陸上競技場のメインスタンドやコースなども見えるが、まだ田畑や空地が多くある。
写真提供:川口市 昭和35年ころ

No.20 1999年1月号 Vol.302
本町小学校<当時・川口尋常高等小学校>東棟の新築落成祝い
明治6年開校の同校は、すでに125年もの歴史を持つ。大正12年の関東大震災では校舎2棟が倒壊した。
写真は大正14年2月、木造二階建ての東棟の新築落成祝いの風景。校舎の前には肋木(ろくぼく)も見える。左隅の材木は、翌年落成した西棟の建材と思われる。
写真提供:白井博氏 大正14年

No.21 1999年2月号 Vol.303
荒川大橋付近
写真前方が荒川大橋。南中学校の建屋の一部も見える。大橋の手前は急な坂道であったが、その後、盛り土され、国道122号線の下を西側の土手下から東側へ抜けるトンネルもつくられた。
左側には、当時の先端を行くガソリンスタンド(鹿島屋荒川大橋営業所)の一部が写る。トラック、オート三輪、オートバイなども行き交い、車社会の到来を象徴する。
舗装されていなかった当時は、砂塵が舞い、コークスやくず(銑鉄)を乗せた荷馬車も通っていた。
取材協力:(株)鹿島屋本店
写真提供:川口市 昭和30年ころ

No.22 1999年3月号 Vol.304
鳩ヶ谷の中心部から望む
写真は、鳩ヶ谷市本町商店街の中心部にあった旧鳩ヶ谷町消防本部の望楼から撮影されたもの。現在は、鳩ヶ谷市商工会館が建つ。中央を走るのは現在の県道大宮・鳩ヶ谷線。当時、地元では「仲銀座通り」と呼んだ旧日光御成街道。重厚な屋根瓦の商家は、宿場町として栄えた鳩ヶ谷中心部の面影を残している。
写真提供:加藤孝昌氏・鳩ヶ谷市在住 昭和34年

No.23 1999年4月号 Vol.305
初荷の風景
正月2日、得意先にその年初めて納品する時、馬に飾りを付け、荷物に「初荷」の幟(のぼり)を立て従業員一同、めでたく見送る。
馬車にはカマドや七輪、鍋などが積まれ、東京の金物問屋へと陸路で向かう。荒川は、舟橋(ふなばし=舟を横に並べてつなぎ、その上に板を渡した橋)で渡るが、赤羽側には料金所があった。
写真・左にはその年に使う1年分の鋳物材料の「銑鉄」が積み上げられ、右手前には「噴き上げ井戸」もある。建物左側、塔の内部には古式炉(溶解炉)があり、屋根の上には消火用の水の入った桶も見える。
写真提供:永井政一氏『欣幸への道』から 大正12年

No.24 1999年5月号 Vol.306
川口劇場
川口市は、大都市東京に隣接するため娯楽機関はあまり豊富にはなかった。しかし、大正7年にはキリン館(後に川口松竹映画劇場)ができ、戦前から川口劇場、卓三館(いずれも映画館)とともに長く市民に親しまれてきた。
写真の川口劇場(後に川口大蔵劇場)では、昭和31年、新東宝提供の映画「君ひとすじに」(宇津井健、久保菜穂子、高島忠夫らが出演)など多くの邦画が放映され、当時の娯楽の中心的存在だったが、平成10年の暮れにはこの劇場も姿を消した。
写真提供:川口市 昭和31年

No.25 1999年6月号 Vol.307
川口駅東口周辺
駅前周辺の変貌は、特に大きい。
昭和49年当時は、大きな花時計や大気・騒音状況の表示板などもあった。バスターミナルが目立ち、交通量は当時からかなりあった。
平成3年には駅東・西口を結ぶペデストリアンデッキ(歩行者用デッキ)が完成、また、川口そごうや川口センタービル、日本一の超高層マンション・エルザタワーなどたくさんのビルも建てられた。
写真提供:川口市 昭和49年(写真右)と現在

No.26 1999年7月号 Vol.308
元郷町の増田増太郎鋳造所(現・増増工業(株))
洋館建ての建物は住まいの一部。中は欅の一枚板が使われるなど純和風の作りになっていて、今も使われている。
手前の川(芝川)と建物との間には、まだ道路はなく、土手には鋳造作業に使われる型枠などが置かれている。
「現在、また少しずつ綺麗になってきている芝川ですが、当時はとても水が澄んでいて、仙元橋から飛び込み泳ぎました。ハゼもいて真赤な蟹が庭の方まで上がってきたりと。土手にノロや残土を置いておくと馬力屋(ばりきや)さんが持っていってくれたり、磁石で金属だけを拾いに来る人も居ましたね(増田氏)
写真提供:増田栄一郎氏 昭和10年ころ

No.27 1999年8月号 Vol.309
戸塚の「けやき通り」からJR武蔵野線のガードを望む
JR武蔵野線の府中本町~新松戸間が開通したのは昭和48年4月1日。
この時期、戸塚地区などの道路整備も急ピッチで進められていた。
写真は、造成中のけやき通りから東川口駅近くのガードを南側から望むが、まだ建物などは全く見られない。この26年間における当地区の変化は、とても激しい。
写真提供:吉野てい子氏 川口市『地域講座・戸塚ってどんなところ?』
昭和48年6月

No.28 1999年9月号 Vol.310
狩野川台風による水害
昭和33年9月26日の夜、伊豆半島をかすめて江ノ島付近に上陸した台風22号。秋雨前線を刺激して大雨を降らせ、伊豆半島や関東南部では記録的な豪雨となった。全国の死者・行方不明者は1,269人。特に、伊豆半島中部を流れる狩野川は大氾濫を起こして流域に甚大な被害をもたらし、「狩野川台風」と名付けられた。
川口市でも床上浸水26,798戸、2人の死者が出た。この洪水は29日になってようやく減水し始めたが、もっとも遅いところでは一週間も要し、電灯がつくまでに3日間、電話の復旧には1か月もかかった。
写真は、本町大通りの本町ロータリー側から川口駅方面を望む。まだ、マンション等の高層建物は無く、今は取り壊された川口市民病院の円形の建物が見える。
写真提供:サッポロビール(株)埼玉工場 昭和33年9月

No.29 1999年10月号 Vol.311
川口駅東口前
当時、川口駅を降りると鋳物製品など、金物を扱う商店が軒を並べていました。愃六カマド、川口金物、大五商店などと。うちも鍋、釜や石油コンロなどを扱っていました」(やなぎ屋・草柳保雄氏)
写真右に看板が見える「やなぎ屋」の建物は、当時としては珍しい木造の3階建てで、現在も健在。高い建物は少なく、電信柱も目立たずに広々とした感じだ。左手の建物は川口工業会館。ここに昭和42年、川口産業会館が建てられた。
ボンネットバスの発着所は、現在と違って東西方向に並んでいる。
写真提供:川口市 昭和28年ころ

No.30 1999年11月号 Vol.312
池田長藏商店(現・金長工業(株))
当時、川口の南平柳地区には10を超える味噌の醸造所があった。
写真は元郷の赤味噌醸造元。明治25年、それまでの織物業から味噌の醸造業に転業し、昭和43年まで麦麹で「麦味噌」を造り続けた。
直径が1.2メートルもある大きな鉄鍋で、石炭を燃料に原料の大豆を煮、できあがった味噌をくらで1年間ほど寝かせ、じっくり醸成してから出荷した。
煙突は、土管をいくつも積み重ねたもので、倒れないように鉄線が四方八方に張られている。写真の右から6人目が店主の池田長藏氏。
写真提供:池田國蔵氏 昭和10年ころ

No.31 1999年12月号 Vol.313
川口機械工業組合(現・川口機械工業協同組合)の
組合会館新築祝い記念撮影
昭和9年創立の同組合は、現在の組合所在地(本町3丁目)に昭和12年、組合会館を建設した。当時の理事長は、高橋三次郎氏。
新築祝いには、多くの関係者が参列した。左上の建物は、創立当時の組合事務所。
写真提供:小原信治氏 昭和12年

No.32 2000年1月号 Vol.314
昭和20年代の川口駅
川口駅が現在の駅舎(高架式跨線橋式)に改築されたのは、昭和43年のこと。構内タクシー、事務所が並ぶ北方面の構内写真。
沼口信一薯『ふるさと思い出写真集・川口』から
写真提供:石井逸朗氏 昭和20年代

No.33 2000年2月号 Vol.315
川口の歴代首長(小池幸三郎胸像前で)
昭和11年、川口市公会堂(現・川口市立中央公民館)前に設置された小池幸三郎胸像の前で、川口町、川口市の歴代首長の記念撮影。
向かって右から3代川口市長永瀬寅吉、初代市長岩田三史、2代市長千葉寅吉、4代市長高石幸三郎(この時議長)、一番左が川口町最終の町長矢崎健治の各氏。
小池幸三郎氏は川口出身の海軍軍人で、日露戦争の時、旅順港に逃げ込んだロシアの極東艦隊がヨーロッパから回航されてくるバルチック艦隊と合流できないように港口閉鎖の目的で廃船を沈めに出撃し、広瀬中佐、杉野兵曹長等と共に戦死された。この様子は小学校の教科書に載り、唱歌でも歌われた。(現在、小池三郎氏の胸像は川口神社に在ります。)
写真提供:千葉乙郎氏 昭和11年

No.34 2000年3月号 Vol.316
寿町の鋳造工場
荒川側から寿町(現・川口1丁目周辺)の鋳造工場を臨む。
工場屋根の一段高い部分が「吹床(ふきどこ)」。ここに銑鉄を溶かす古式炉(溶解炉)がある。
手前の水路は、工場で造った鋳物製品や銑鉄、砂、コークスなど鋳造に必要な燃・原材料を舟で運ぶために作ったもの。水路の左手には、田んぼも広がっている。
当時、この工場には50人あまりの鋳物師が居、直径が1~2メートルもある大きな蒸気釜などを造り、この水路から荒川を経て東京方面に出荷していた。
写真提供:浅倉博通氏 昭和初期

No.35 2000年4月号 Vol.317
明治38(日露戦争祝勝)ごろの川口宿
川口宿の明治38年(日露戦争祝勝)ごろの写真です。今の本一通りを、荒川堤の所から撮ったもの。川口と云っても、そのころの宿は、ここから今の本町ロータリーまでの3丁ほどが中心でした。日本橋から本郷、王子、岩淵を通り、川口の渡しで荒川を渡り、埼玉の入り口にかかり、錫枝寺の門前で右へ曲り、鳩ヶ谷、岩槻、幸手と進んで行くのが、この日光御成街道(昔の鎌倉街道)でした。
この街道だけは商店街で、いつもこんな賑わいでしたが、一歩右(荒川寄り)か、左(金山町)へと踏み込むと、戦争景気の鋳物工場と、その下請けの木型屋さんや、職工さんたちの長屋がビッシリと並んでいました。右、とっつきの建物及びその向こうの石倉が、当時の町長、綿屋伝次郎(初代市長岩田三史の祖父)の店でした。
文・写真提供:岩田健氏 明治38年ころ

No.36 2000年5月号 Vol.318
青木町(当時)の釣竿製造問屋
川口地区の竹釣り竿の起源は、今から200余年も前の天明年間と言われている。
写真は、自宅につづく作業場での「継ぎ竿」の作成風景。竹竿の曲がりの矯正、漆塗り、糸巻き加工や竿の「調子」を見ている。
その後のグラスファイバー製釣竿が台頭しだす昭和33年ころまで、川口地区の竹釣竿は隆盛を極めていた。
昭和初期

No.37 2000年6月号 Vol.319
白井機械製作所の作業風景
作業を見守る当主、白井福蔵氏(中央右)は鋳造業の他、昭和初期に機械工場を設立、鋳物を主体とした歯科用治療椅子の製造に着手。歯科系学校、病院や医療関係商に販路を広げ、東京はじめ関西方面に及ぶとともに、中国(上海)などに輸出もした。
昭和4年11月には、東京歯科医学専門学校から指定を受け50台を納め、高い評価を得た。
写真提供:白井博氏 昭和初期

No.38 2000年7月号 Vol.320
全国鋳物大展覧会
川口鋳物同業組合は、昭和4年5月に事務所を増設、併せて物産陳列館も増築した。組合はここにこれを記念して、全国鋳物大展覧会を開催し、川口の鋳物製品、全国の鋳物同金属製品、それに原材料などを広く公募展示して、斯界の振興、発展を図らんとし、現在の駅前産業会館の地点にて、昭和4年10月15日より19日まで開催、細川埼玉県知事を始め、代議士、県議など多くの参集を得、入場者約15万人と記録されている。
文:『ふるさとの想い出 写真集 川口』 沼口信一編著から
写真提供:白井博氏 昭和4年

No.39 2000年8月号 Vol.321
錦町ラジオ体操会場
ラジオ体操は、大正14年逓信省(現在の総務省)が簡易保険加入者の健康増進のために、アメリカの生命保険会社が広告放送で流していた体操を日本に紹介したのが最初といわれている。昭和20年8月15日には一時放送中止となるが、間もなく(8日後には)復活した。
錦町は、昭和10年、栄町北3丁目のうち、JR京浜東北線の西側の地区が分離して成立。昭和14年に大字飯塚の一部を編入し、同45年に人口2,265人に達する。昭和49年の住居表示の整備により現在の川口4丁目と川口3・5・6丁目の各一部となる。
写真は現在の川口駅西口から横曽根方面へ伸びる道沿い。当時は戦時体制下、町会の団結力が強かった。
「朝のラジオ体操をやった後は、荒川の水泳練習場にいって、泳いだり、カニを取ったりしていました。
この写真を見ると、荒川でしごかれていたのを思い出します。」とは、小原さんの言。
写真提供:小原信治氏 昭和16年ころ

No.40 2000年9月号 Vol.322
伊藤愃六工場川口駅前支店の
広告塔
川口駅東口前には、鋳物製品を扱う店舗が軒を並べていた。その中でも伊藤愃六工場は高さが30メートルもある広告塔を設置し、「鋳物の町・川口」のシンボルにもなっていた。
元郷の工場で製造した「籾殻カマド」や「愃六ストーブ」などを駅前支店で販売、全国から顧客を集めていた。
広告塔は大正10年に設置され、関東大震災、戦時中の銑材の供出を免れ、昭和42年まで設置されていた。
写真提供:伊藤愃六氏
昭和10年ころ

No.41 2000年10月号 Vol.323
関東市長会議の記念撮影風景
昭和15年5月、川口市で開催した第24回関東市長会議。
2日間の議事のほか、安行植物園などの視察も行われた。
写真は、川口市役所庁舎前での記念撮影風景。最前列、左から9人目が高石幸三郎川口市長。この年は紀元(皇紀)2600年で、これを祝う看板も見える。
写真提供:佐藤鐵氏 昭和15年

No.42 2000年11月号 Vol.324
永瀬家自宅前から・嫁入り時の風景
「これは私の叔母が増田金蔵氏のもとに嫁ぐ際、嫁入り道具を整え、今まさに出発する時の光景です。向かって一番右の仲人さんを先頭に、出入の職人たちは揃いの印半纏(しるしばんてん)を着て気勢をあげながら、婚家の本町2丁目、増田家へ向かうところです」
写真提供:永瀬洋治氏 昭和初期

No.43 2000年12月号 Vol.325
錦町・町会婦人部の人たち
「昭和16年ころの世相は全体主義で、命令には何ごとも従わなければならない、暗雲漂う殺伐とした男性の時代でした。
しかし、この写真では、川口市の町内会婦人の皆さんが正装され、表情豊な笑顔、車中での雰囲気と、楽しい旅行のひとこまが窺(うかが)われます」
写真提供:小原信治氏 昭和16年ころ

No.44 2001年2月号 Vol.327
川口駅東口前地下商店街
昭和45年に完成したこの地下商店街には飲食店、服飾店、釣具店、書店など30店舗が入居。地下通路としての機能ももたせ、通勤客はもちろん多くの市民が利用した。
この地下商店街も平成3年、駅前広場の第2次整備の完成、ペデストリアンデッキ等の完成に伴いその役目を終え、地下駐輪場に姿を変えた。
写真提供:川口市 文:『川口大百科事典』から 昭和50年ころ

No.45 2001年3月号 Vol.328
錦町・鋳物工場前の池
かつて川口の鋳物工場のそばには、池がよくあった。
特に川口の南部地域などは地盤が弱く、近くから土を取って来て盛土し、そこに工場等を建てた。土を取った後の窪地には水が湧き、池になったという。ただ、この池は鋳物工場から出るノロ(鋳物製品を造る時に出る廃棄物)の埋め立ての場として使われ、戦後にはほとんど埋め尽くされて見られなくなった。
「子供のころ、親からは『池に入ってはだめだ』とだけ言われ、どうしてだか分からないでいました。ノロには金属片などが混ざっていて危険だったからなのですね。しかし、妙仙寺というお寺を建てるためにできた『仙太郎池』だけは別でした。湧水の冷たいきれいな池で、よく泳いだり魚釣りしたのを憶えています(小原信治氏)」
写真提供:小原信治氏 昭和16年ころ

No.46 2001年4月号 Vol.329
鎌倉・長谷の大仏(高徳院の本尊)前で記念撮影
台座を含めると高さ約13メートル、重量約121トンの青銅製・阿弥陀仏。
最初は木造で1243年(寛元元年)に完成したがその後、台風で倒壊。1252年(建長4年)に再建を開始し、これが今に残る。
写真は大仏前での記念撮影風景だが、撮影時期など不明。
写真提供:村田一久氏 年代不明昭和初期ころか

No.47 2001年5月号 Vol.330
青木鍛冶工組合事務所前での組合役員たち
川口の鍛冶業は市内上青木地区を中心に、家内工業として江戸末期より農間を利用、農具等の製作に従事してきたという。農具一般、建築用金物、棒刀錐(ぼうとうきり)、製本用具、下駄職・畳職・左官大工職用具等の百般の錐・針などが作られ、昭和の最盛期には150余軒の鍛冶屋があったという。(『川口大百科事典』から抜粋)
写真人物は向かって右から、田島仙太郎、横田勝之介、増田源太郎、増田源次郎、伊藤茂太郎、増田治平、田島仲次郎、熊木松造の各氏。
写真提供:伊藤愃六氏 昭和10年ころ

No.48 2001年6月号 Vol.331
全国鋳物大展覧会・第一会場の陳列品
川口鋳物工業協同組合の前身「川口鋳物同業組合」が主催した展覧会の会場内風景。
鍋、釜、鉄瓶などの日用品からカマド、ストーブ、置物、椅子など様々な物品が展示されている。
5日間の会期に約15万人の入場者があり、また、商工大臣をはじめ多くの名士を招待し、不況打開と伴に「川口鋳物」を全国に広く紹介するものであった。
写真提供:白井博氏 昭和4年

No.49 2001年7月号 Vol.332
川口少年チーム
・・・川口少年チームと飯能少年チームとは定期戦を開催した。第1回戦は飯能に遠征し、選手達は前日に出発、応援団は自転車や電車で駆けつけ、善戦したが破れた。
第4回戦(昭和6年)は初めて川口で行われた。川口では後援会をつくり、寄付金を集めたり、町ぐるみで応援するという熱の入れようだった。試合当日、舟戸ヶ原グランドに集まった観衆は約1万人、2対0で快勝し、その実績で埼玉県代表として全国大会に出場した。全国大会では2回戦に勝ち進み浜松の元城小学校と対戦、チームが優勝を成し遂げているのを見るに川口チームの実力は、全国でもトップクラスであったと思われる。
写真人物は、前列左から小野、川口、片桐、中列左から磯貝、渡辺、富田、小川、小林、加瀬、後列左から孝多、三井、永井、小川、石川、柳田の各選手と内田博三監督。
写真・文:『川口野球五十年史』編集発行人 塚越達氏 昭和6年夏

No.50 2001年8月号 Vol.333
永瀬鐵工所の事務所
レンガとモルタルづくりの洋風の建物。
この鐵工所は、「川口近代鋳物業の先駆者」と言われる永瀬庄吉、その長男で川口市長、川口商工会議所会頭なども務めた永瀬寅吉らを経営者とする。
当初、薬草を刻む鋳鉄製の器、薬研(やげん)を製造していたことから「やげんや」と呼ばれていた。
昭和初期には従業員175人、工場敷地5000坪で鋳造工場のほかに工作場、水圧試験場などをもつ大きな会社となったが、昭和20年4月13日、空襲を受けて焼失した。(文中、敬称略)
文:『川口大百科事典』他
写真提供:伊藤愃六氏 昭和初期

No.51 2001年9月号 Vol.334
江北荒川堤五色の桜
現在の足立区江北の一帯は「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所だった。「五色桜」とは、品種の名前ではなく、一般的なソメイヨシノのほかに、当時珍しかったヤエザクラなどの品種が混植されていたため、白や黄色、淡紅色や濃紅色などに彩られ、五色の雲がたなびく如く見えたところからこの名が付いたと言われている。
明治45年には、当時の東京市長、尾崎行雄が日米友好の証として12品種3000本の桜苗を首都ワシントンに贈った話は有名だが、このとき使われた桜がこの「五色桜」であった。ワシントンでは、この桜を主として市内のポトマック公園に植栽した。そののち、多くの人々の努力で世界的な桜の名所となっている。他方、本家の「荒川の五色桜」は堤防工事や公害の影響で、残念ながら衰退してしまった。
足立区ではこの由緒ある「五色桜」を復活させるため昭和56年、ポトマック公園の桜から枝を採取し、35品種3000本の「桜の里帰り」を実施した。
また、本年8月には「川口さくらクラブ(田中徳兵衛会長)」が設立され、桜の里親「桜守(さくらもり)」らが芝川沿いに様々な種類の桜を植栽して行き、河川環境の整備と新しい景勝地創造のための活動を始めている。
文:『里帰り桜のしおり』(足立区土木部公園課)、他
写真提供:五十嵐貞雄氏 明治~大正

No.52 2001年10月号 Vol.335
池田長蔵精醸の初荷の風景
新車のダットサンにしめ飾りを付け、赤味噌の20貫樽を積んで東京方面に向かう正月の初荷の風景。
味噌醸造業は南平柳地区にあった地場産業で、その歴史は200年余りにもなる。この地では良質の水、材料の大麦が産出され、また、大消費地の東京(江戸)にも近いことからこの産業が発展した。
「麦麹を使って造る赤味噌の醸造には1年かけます。じっくり醸成してから出荷しました」。「2000~2500円で2軒長屋が建てられた当時、ダットサンは1500円したことを憶えています(池田國蔵氏)」
写真提供:池田國蔵氏 昭和10年ころ

No.53 2001年12月号 Vol.337
35トン取鍋(トリベ)
川口市には、鋳物製品を造る工場(鋳物工場)だけでなく、鋳造業に必要なさまざまな製品を提供する多くの産業が集積している。
キューポラや電気炉から溶けた鉄(湯)を鋳型に運ぶ機具にもいろいろある。人が手で持って使う柄杓(ひしゃく)型の「ユクミ」からクレーンを使う「取鍋(トリベ)」などと各種。
写真は市内の大熊鋳材(株)が昭和42年、日本鋳造福山工場に納めた超大型・35トン取鍋。同社では、この後に更に大型の50トン取鍋を納品し、話題となった。
「この大きな取鍋は華やかな当時の鋳物工業を象徴しているようですね」(大熊不二氏)
写真提供:大熊不二氏 昭和42年

No.54 2002年2月号 Vol.339
舟戸ヶ原(現在の新荒川大橋と鉄橋の間)の写生
川口市と東京・岩渕とを結ぶ新荒川大橋が開通したのは昭和3年9月16日。
それまでは渡し舟が、そして並べた舟の上に板を渡した「舟橋」が利用されていた。
絵画は、岩渕側から川口町方面を臨むもの。舟橋のたもとには料金所が、また、中央左寄りには木々に囲まれた善光寺本堂も描かれている。
絵画提供:池田國蔵氏 昭和2年10月ころの風景

No.55 2002年3月号 Vol.340
荒川鉄橋を行く蒸気機関車
赤羽~大宮間が電化され、電車が運転されたのは昭和7年9月1日から。それまではSL(蒸気機関車)が走っていた。写真は川口町側から荒川鉄橋を臨むものだが、荒川と土手との間には田圃が広がっていた。対岸(右端)には、工兵隊の兵営も見える。
日本鉄道株式会社の川口~熊谷間の鉄道敷設工事は明治15年に起工、同24年9月1日には上野~青森間が開通した。川口駅の前身である「川口町停車場」が開設されたのは明治43年9月1日。当時から既に「産業の街川口」で、乗客のほか貨物扱駅として鋳物、機械製品をはじめ多くの物資が流通する拠点でもあった。
写真提供:岩田健氏 昭和3年ころ

No.56 2002年4月号 Vol.341
ハーレーダビットソンに乗る宮内新助さん
アメリカのオートバイメーカー「ハーレーダビットソン(H-D)」が誕生したのは1903年(明治36年)のこと。1909年にはH-Dを象徴する最初のVツインエンジンが発売された。
ハーレーが日本に輸入されたのは1913年(大正2年)から。
写真は後に機械工具商を営み、川口機械工具商業協同組合の前身「川口機工会」の初代会長を務めた宮内新助さんの若いころ。
「父が独立する前、稲垣兼吉商店に勤務していた時の写真です。営業や小物の配達に使っていたのですが、道も空いていたので未舗装でも整備された所では手放しで乗れたとのことです。でも、ちんどん屋を避けそこなってコケたこともあったと言ってました。(宮内豊太郎氏)」
エンブレムには「INAGAKI」とあり、ブーツにグローブ、ゴーグルなど整えている。
写真提供:宮内豊太郎氏 昭和8年

No.57 2002年5月号 Vol.342
川口1丁目、金子家の店舗
川口駅東口から徒歩2分、善光寺通り沿いの食堂、金子家。当時、周りには鋳物工場や関連産業が多く見られ、少しばかり歩くと田圃や葦の茂みが広がっていたそうだ。
開業間もない店の前で、寿町若連のハッピを身に纏うのは金子家の職人さん。足元の長靴には少しばかりの違和感を覚えるが未舗装の凸凹道、前日に雨があったのか、はたまた魚の下ろし作業中だったのか。紅白幕と軒先の提灯、大正14年の秋祭りでのひとこま。
今も同じ場所に立つ当店、この秋に川口駅東口周辺の再開発によって77年の歴史に終止符を打つ。
写真提供:金子孝一氏 大正14年ころ

No.58 2002年6月号 Vol.343
ミス川口美人コンテスト
川口商工会議所主催で開催されたコンテスト。候補者は宣伝カーで市内をパレードした。
写真は昼頃に撮られたもので、昼休みなのか、工場の従業員たちが見物している様子がうかがえる。パレードの日は日曜日。当時の工場は休みなく操業されていたのだろうか?
写真提供:川口商工会議所 撮影者:飯塚栄司氏 昭和31年

No.59 2002年7月号 Vol.344
川口芸奴舞踊
第1回全国鋳物大展覧会(昭和4年)の開会式で踊りを披露する川口の芸者さん達。
この展覧会は、川口鋳物協同組合が主催し、全国の鋳物製品や原材料などを展示した。会場には約15万人の人々が訪れ、多いに賑わったそうだ。
写真提供:白井博氏 昭和4年

No.60 2002年8月号 Vol.345
鍋平のカタログ
川口町の鋳物在郷問屋「鍋平(なべへい)」は、川口町にあって積極的商法で販路を拡張していった。明治期、既にカタログ販売方法を取り、各地にこれを送った。
写真集「川口」より
写真提供:嶋崎迪久氏 明治28年

No.61 2002年9月号 Vol.346
栄町3丁目、ボウリング場がありました
現在のコモディイイダ川口東口店があるところ。
写真のダイエー川口店は、川口駅周辺の大型店第1号として昭和42年にオープンした。
翌年にはイトーヨーカドー川口店もオープンし、地元商店街とともに川口駅東口周辺は活気づいた。
写真提供:川口市 昭和51年

No.62 2002年10月号 Vol.347
明仁親王(今上天皇)
サッポロビール(株)埼玉工場ご見学のひとこま
昭和22年11月6日、細菌学研究の目的で御学友51人と埼玉工場を見学された折のひとこま。 〔写真左に明仁親王(今上天皇)、中央の男性は当時の工場長〕
御所から工場の貴賓室までは東宮殿下の御資格で、工場御巡覧の間は学生の御資格であったという。
当日は「天気快晴見事な菊日和」で、工場内の各部屋は菊の鉢で飾られたという記録がある。
大正14年に創業されたサッポロビール(株)埼玉工場は、来年の秋ごろをもって約80年にも及ぶ長い歴史に幕を下ろす。
写真提供:サッポロビール(株)埼玉工場 昭和22年

No.63 2002年11月号 Vol.348
創業時の川口オートレース
第1回川口オートレースは、埼玉県営により昭和27年2月1日から6日間開催されたが、 初日は雪で競技は2日より開始。しかし泥濘走路のため、成績は芳しくなかった。
このころのオートレース場は、ダートで未舗装路であったが、昭和40年に走路舗装化基準の改正があり、 全国一斉に走路の舗装化が始められた。各種場内施設の建設、整備も進められ同年に第一号スタンド、 同43年には特別観覧席を設けた6階建てのスタンド等が完成した。
写真・本文提供:川口大百科事典(本文一部抜粋) 昭和27年ごろ

No.64 2002年12月号 Vol.349
明仁殿下 サイボー(株)をご訪問
国内繊維産業の現状をご覧になるため、サイボー(株)(川口市前川)を視察された際の写真。 昭和40年10月8日のこと。
「前川工場と神根工場の2ヶ所をご見学いただきましたので、2時間半くらいご滞在になったと思います。 いらっしゃる前にお勉強されたんでしょうねえ。ご見学中はいろいろ質問をされたそうですよ。 ご見学コースの最後には女子寮もご覧いただきました。普通の人でもなかなか見られない場所ですが(笑)」 (飯塚博文社長)
当時、同社の社員は約1,300人。そのうちの8割が女子社員で、社の敷地内には女子寮も完備され、800人くらいが寮生活をおくっていた。
前川と神根の両工場を結ぶ約1キロの沿道には、平日の昼間であったが近隣の小中学生や住民が日の丸を手に集まった。(車中から撮影)
活き活きとした子ども達の表情が印象的な写真である。
写真提供:サイボー(株) 飯塚博文 氏 昭和40年

No.65 2003年2月号 Vol.351
初荷の風景
その年初めて納品する荷物に「初荷」の幟(のぼり)を立て、馬に飾りをつけて、従業員一同で見送った。
昭和7年創立の双葉照会は、創業者の故稲川次郎氏が、煉炭ストーブ「フタバコンロ」を開発。
当時は、「福禄ストーブ」等の石炭やコークスを燃料とするものが主流であったが、安価で扱いやすい煉炭が普及し始め、フタバコンロの名も広まった。
写真提供:稲川邦子氏 昭和10年頃

No.66 2003年3月号 Vol.352
大日本国防婦人会 川口第一分会
川口市初代市長、岩田三史氏の実姉である岩田敏子氏が、昭和10年川口市の花柳界の人々を中心とする国防婦人会川口第一分会を発足させた。
会は、軍事援護事業、大衆婦人の精神教化につとめ、銃後後援活動として消費節約、廃品回収運動等を行い、また出征軍人の歓送迎、留守家族の生活援護など戦争協力に動員された。昭和17年、大日本婦人会への統合で解散した。
写真提供:永瀬洋治氏、文:川口大百科事典より一部抜粋 昭和10年

No.67 2003年4月号 Vol.353
川口駅周辺の航空写真
当時、川口駅西口には国の研究機関の公害資源研究所(昭和55年に移転)があった。跡地は、平成2年川口総合文化センターリリアとなり、翌年には東口にそごうがオープン。さらにそれらを結ぶペデストリアンデッキも完成し、駅周辺は急速に変化した。
この写真の撮影から約30年。サッポロビール(株)埼玉工場は今秋には操業を停止し、「鋳物の街川口」の名残をとどめる川口産業会館も商業ビルとして生まれ変わることになった。
写真提供:高柳正憲氏 昭和50年頃

No.68 2003年5月号 Vol.354
奉幣使(ほうへいし)の一行
川口市役所前で撮影された1枚。
戦前の風習で市長が神社に赴き、まちの安全祈願をしていた。
写真は、市長の名代が威厳を正して出発するところである。
写真提供:永瀬洋治氏 昭和10年頃

No.69 2003年6月号 Vol.355
児童の相撲体操
元佐渡ヶ嶽親方(現役時代は阿久津川)の永井高一郎氏の指導のもと、旧川口第一小学校(現本町小学校)の校庭に相撲の土俵が作られ、児童の相撲体操が行われていた。
写真提供:永瀬洋治氏 昭和10年頃

No.70 2003年7月号 Vol.356
夏祭りのひとコマ
川口神社の祭礼で、太鼓の山車を引く子ども達が本一通りに集まったところ。
みんなそれぞれお化粧をして、すまし顔で待っています。
写真提供・文:永瀬洋治氏 昭和10年頃

No.71 2003年8月号 Vol.357
出征、そして無言の帰還
戦争が激化する中、続々と応召兵が戦場に向かった。川口駅頭では、連日出征風景が繰り返された。なかには、関特演(関東軍特別大演習)の召集のように、見送りも受けずに平服での隠密行動の出征もあった。
同じ駅から出発した人々のうち、1753名が無言の帰還者となった。市では、”無言の凱旋者”として市民をあげてこれを迎え、随時、市主催の慰霊祭を挙行した。
写真提供:永瀬洋治氏 文:「川口のあゆみ」 昭和14年頃

No.72 2003年9月号 Vol.358
川口町駅統計表
「川口町停車場」と呼ばれていた川口町駅が開設したのは、明治43年9月1日のことであった。日本鉄道株式会社の川口-熊谷間鉄道敷設工事の起工式が川口駅で挙行されたのが明治15年、駅開業まで18年の歳月を要した。
停車場設置運動は、川口町挙げての町民運動の様相を呈して展開された。当時の川口町戸長芝崎平七より埼玉県令吉田清英宛に出された設置願には、(1)日光御成道より陸羽方面に通ずる主要街道であり、(2)荒川による武蔵より江戸に至る水運の便があり、(3)鋳物生産地として諸物産の輸出入極めて盛んであること、(4)新設荒川鉄道橋に事故あるときの復旧基地として停車場の要地である、などが掲げられ「人員並びに諸荷物1ヶ月調査」を添えて停車場設置を懇願した。
写真提供:川口市 文:「川口大百科事典」 明治43年~大正8年のもの

No.73 2003年10月号 Vol.359
川口市役所の野球チーム
所内の野球好きが集まり、野球チームが結成された。写真は、これから他チームとの対抗試合に乗り出すところの様子。ユニホームの胸には市章、帽子には川口のKがマークされている。
ユニホームの長い袖が時代を感じさせますね?
写真提供:永瀬洋治氏 昭和10年頃

No.74 2003年11月号 Vol.360
市制施行を祝う・・・本一通り
川口の領域の変遷は多岐にわたっている。
明治時代、初めは大宮県に属し、ついで浦和県と変わり、明治4年になって今日の埼玉県がしかれその管下となった。
明治12年、市町村制の実施とともに、”川口町”となり、昭和8年4月1日、隣接の横曽根村・青木村・南平柳村の3村と合併してここに「川口市」が誕生したのである。
写真提供:川口市 昭和8年

No.75 2003年12月号 Vol.361
隣保館のクリスマス
隣保館とは今でいう保育所のこと。
当時、川口市隣保館は旧市民病院敷地(川口市本町4丁目)にあって、恵まれない子どもや働く親に代わり、子どもたちの保育にあたっていた。
写真は、市役所の職員(サンタも?)も参加しクリスマス会が催された際のひとコマと思われる。子どもたちが手に持つ紙風船は、サンタさんからのプレゼントだろうか。
写真提供:永瀬洋治氏 昭和8年頃

No.76 2004年2月号 Vol.363
奉安殿落成式の様子
川口市第六尋常小学校(現飯塚小学校)は、昭和13年4月、職員13人、児童714人で開校した。しかし校舎がなかったため、5年生以下は川口第二(現幸町小)、5年生以上は川口第三(現仲町小)の両校校舎の一部を借りて授業を行っていた。
昭和14年、現在位置に新校舎落成。写真は翌年に奉安殿(天皇陛下の写真や勅語を保管する建物)が建設され、盛大な落成式が行われた時の様子。
写真提供:永瀬洋治氏 昭和15年頃

No.77 2004年3月号 Vol.364
幼稚園の卒園式
数年前、川口町に初の私立幼稚園が、現在の本町3丁目あたりに建てられた。
卒業証書を持つ園児の後ろに羽島園長。その右には勤労の象徴であった二宮金次郎像が建てられている。
写真・文提供:写真集「川口・鳩ヶ谷・蕨の100年」(郷土出版社)より
昭和10年頃

No.78 2004年4月号 Vol.365
双葉鋳造(株)(当時)内で撮られたひとこま
鋳物業が最盛期を迎えていた当時は、広い敷地で操業している工場も多くあった。しかし時代の流れとともに、工場はマンションや戸建住宅などに姿を変えていった。街の匂いや色も変わりつつあるようだ。
写真提供:稲川邦子氏 昭和18年頃
昭和10年頃

No.79 2004年5月号 Vol.366
日本ピストンリング株式会社
昭和60年まで元郷にあった大企業。陸軍と海軍の指定工場として軍需用ピストンリング製造にかかわり、戦後は復興産業として順調な生産活動を続けていった。
しかし、昭和50年代後半から街の都市化や人口増加など社会的要因により工場操業に困難をきたし、昭和60年栃木県へ移転した。跡地には超高層マンション「エルザタワー」が建設された。
写真提供:永瀬洋治氏 昭和10年頃

No.80 2004年6月号 Vol.367
本町の「裏町通り」
「昭和40年代の写真を思われます。本一通りのひとつ西側の通りで、私の父などは『裏町通り』と呼んでいました。
当時この通りには、鋳物工場や質屋さん、お風呂屋さん、魚屋さん、八百屋さんなどが軒を連ねていました。確かカナリーという小鳥屋さんがあって、子供のころに鳩のエサを買いに行った記憶が甦ります。」
写真提供:川口市 昭和40年代中頃

No.81 2004年7月号 Vol.368
川口市民病院
昭和22年に開業した川口市民病院。川口市立医療センターの開設により、平成6年、半世紀近くの使命を終えた。跡地とその周辺地域は、本町4丁目地区市街地再開発事業として整備され、今秋、活気あふれる街並みが現れる。
写真提供:写真集「川口・鳩ヶ谷・蕨の100年」(郷土出版社)より
昭和30年代

No.82 2004年8月号 Vol.369
川口商工会議所議員選挙人名簿
昭和16年3月10日に行われた川口商工会議所議員選挙の際に発行された選挙人名簿。当時の会員数は法人 111社、個人 1,209社。鋳造業の繁栄とともに「青物販売」「菓子販売」「荒物販売」「西洋料理店」等、多くの商店が軒を連ねていた当時の様子がうかがえる。
この選挙において、会頭に永瀬寅吉氏、副会頭に高橋三次郎、田島房邦両氏、常議員に金子政治、飯塚孝司、小林英三、大野元次郎、立木小七郎、名古屋三吉、大熊武右エ門の各氏が選任された。(同年9月に永瀬会頭が辞任し、田島房邦氏を会頭に選任した。)
写真提供:㈱森田材木店 森田昭平氏 昭和16年

No.83 2004年9月号 Vol.370
埼玉国体

No.84 2004年10月号 Vol.371
教えてください
フタバコンロを製造していた双葉鋳造(株)の工場内でのひとこま。
コンロの部品を製造している様子と思われますが、時代などのくわしいことがわかりません。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。
写真提供:稲川邦子氏

No.85 2004年11月号 Vol.372
台風による水害 - 元郷小学校
今年は台風の当たり年となりました。
昭和30年代も全国各地に被害をもたらした台風が多く発生しました。
昭和36年は、6月の集中豪雨では荒川が氾濫、9月には第二室戸台風が発生するなど、川口市内でも甚大な被害がもたらされました。
写真提供:元郷小学校(PTA)
昭和36年

No.86 2004年12月号 Vol.373
川口尋常高等小学校(現 本町小学校) 卒業記念帖
同校は、明治6年6月、芝崎平七氏宅を仮校舎として開校した。
同29年に本町新屋敷に新校舎を建設し移転、川口尋常小学校となり、同33年に高等科が併設され、川口尋常高等小学校となった。
写真は大正時代のもの。当時は、高等科まで進める生徒は、まだごく一部だったという。
昭和8年頃には、校舎は5棟に増え、3千人もの生徒が通うマンモス校であったという。
写真提供:福田屋洋品店(福田時知さん) 大正4年

No.87 2005年2月号 Vol.375
第1回川口商工会議所会員大会
昭和40年代後半から50年代にかけて、世界的規模の不況が深刻化していた。
とくに川口にあっては、鋳物工業が最も大きな影響を受け、月々の生産はピーク時の2分の1以下という、きわめて厳しい状況にあった。
そのような中、川口商工会議所は第1回会員大会を川口市民会館で開催。
“連携と繁栄をめざして”を大会テーマに掲げ、市内の商工業者約1,100人が一堂に会し、不況突破に努力し、会員の団結と連携を強めることを誓い合った。
昭和50年

No.88 2005年3月号 Vol.376
田中邸の建前
四代目田中德兵衞氏が、大正10年から3年間をかけて、当時としては最高にモダンで破格に立派な邸宅を建設した。
建築費の総額は18万円。当時の一流企業社長の報酬が月5百円、一流大学卒の初任給が70円、米一俵が8円であった。
写真・文: 「地域共生-セントラルグループ≪起業の軌跡≫より」 大正10年

No.89 2005年4月号 Vol.377
荒川土手から見た川口1丁目付近
荒川土手から見た川口1丁目付近の写真と思われる。
今ではマンションが建ち、土手も整備されたが、当時は台風などが来ると土手の決壊を心配したものだった。
たくさんのトラックも見られ、産業の発展に一生懸命だった当時の生活が垣間見られる。
写真提供:川口市 昭和51年頃

No.90 2005年5月号 Vol.378
市議会議員2人を出したことを祝う舟宴
本町1丁目から市長をはじめ、収入役、市議会議員2人を出したことを祝う舟宴が、本町1丁目有志により開かれた。
当時の川口には宴会場が少なく、船上での開催となったと言われている。
写真提供:岩田 健氏 昭和8年6月

No.91 2005年6月号 Vol.379
川口公会堂での表彰式
新装された川口公会堂が、今の本町ロータリーの前にオープンした。
平土間ながら収容人員1,000人、間口5間(約9メートル)の舞台と座敷もあった。
写真は新装された公会堂で行われた、鋳物工業組合主催の「業務改善考案応募者表彰式」の様子。
写真提供:岩田 健氏 昭和8年2月

No.92 2005年7月号 Vol.380
川口町駅の風景
駅のホームにはところ狭しと待合の人が並び、当時の街の活気ある様子が伝わってくる。
着物姿の人やスーツにハットという洋装の人が混在しており、この頃庶民の生活スタイルにも変化の兆しがあったのをうかがわせる。
写真奥には今にも汽笛の音が聞こえてくるかのような、入線するSLが映し出されている。
写真提供:鳥海 歓彦氏 昭和8年

No.93 2005年8月号 Vol.381
川口音頭・鋳物音頭コンクール
昭和30年、市制施行22周年を記念して、「川口音頭」「鋳物音頭」が制定された。写真は翌31年に、川口市・川口市教育委員会・川口商工会議所の三者共催により川口女子高校(現川口総合高校)の講堂にて開催された発表会の様子。
鋳物産業が急速に発展していく中で、街も人も活気に溢れていた当時の様子が、粋な歌詞から伝わってくる。
川口音頭(1番)
仕事すませて ひと風呂あびてよ ハ サットナ
みんな踊ろうよ 川口音頭
ハァーそろう手ぶりのゝしなのよさ
サテ いものの川口 おらがまち
ソレ 手拍子そろえて みな踊ろ
鋳物音頭(1番)
誰が言ったか 聞かせたか ソレ
鋳物川口 日本一
トコチャラリコまったくだ
そうだそうとも 昔も今も ヨイショ
尽きぬ栄誉の 華が咲く ホントダネ
*いずれも加藤雅夫、島倉千代子の唄であった。
写真:川口商工会議所 文:「川口大百科事典」より一部抜粋 昭和31年

No.94 2005年9月号 Vol.382
梅の木天神(昭和10年代)
学問の神として本町小学校の校庭に祀られていた天神社。
当時小学生から「梅の木天神」と親しまれていた。
戦後移設され、現在は川口神社の緑の中に静かにたたずむ。
写真提供 鳥海 歓彦氏 昭和10年代

No.95 2005年10月号 Vol.383
増田鋳造所(当時)内で撮影されたひとこま
増田鋳造所(当時)内で撮影されたひとこま。
索道会社へ運搬装置の部品を納入する際に、完成記念として撮影された様子。
大きな仕事を成し遂げたときの誇らしい気持ちからか、直径およそ2メートルもの大車輪を前に、力強いまなざしと生き生きとした表情が伝わってくる。
写真提供 増田みち子氏 昭和10年頃

No.96 2005年11月号 Vol.384
本町小学校校庭 簡閲点呼
現在の本町小学校の校庭で開催された簡閲点呼の様子。
もと陸・海軍の予備役、後備役の在郷軍人を召集し、士気を高めるため点検・査閲する行事である。
当時、軍事訓練を行うための青年訓練所はおもに公立小学校単位に設置されていた。
写真奥にはエプロンを着た国防婦人会の女性たちの姿も見える。
写真提供 岩田 健氏 昭和8年7月

No.97 2005年12月号 Vol.385
増田邸の母屋の上棟式
増田邸の母屋の上棟式の様子。
上棟式とは建築儀礼の一つで、上棟のとき工匠などが神をまつって行う儀式のこと。
この写真ではハッピにねじり鉢巻の男たちに交ざって、2人の神主の姿も見える。屋根の上にしつらえた足組みには、お神酒や華やかな飾りが見え、賑やかな雰囲気が伝わってくる。
祝いとして近所の人にはお菓子などが配られた。
写真提供 増田 みち子氏 昭和12年5月

No.98 2006年2月号 Vol.387
荒川の水練

No.99 2006年3月号 Vol.388
物産陳列館前での記念撮影
前列左から3番目に写るのが白井鋳工所の当主、白井福蔵氏。
昭和初期に機械工場を設立し、鋳物を主体とした歯科用治療椅子の製造に着手した。
写真は、東京歯科医学専門学校から指定を受け椅子50台を納めた折、学生を川口に招き、工場等の見学を受け入れた際の記念写真。
後ろの建物は、川口鋳物同業組合(現川口鋳物工業協同組合)事務所並びに物産陳列館。
写真提供 白井 博氏 昭和初期

No.100 2006年4月号 Vol.389
荒川堤五色の桜
現在の足立区江北の一帯は「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所だった。
「五色桜」とは品種の名前ではなく、一般的なソメイヨシノのほかに、当時珍しかったヤエザクラなどの品種が混植されていたため、白や黄色、淡紅色や濃紅色などに彩られ、五色の雲がたなびくように見えたところからこの名が付いたと言われている。
堤防工事や公害等の影響で姿を消したが、川口・芝川沿いには、「川口さくらクラブ」(2001年8月)によって様々な種類の桜が植樹され、道行く人に春の訪れを知らせている。
写真提供 岩田 健氏 昭和9年

No.101 2006年5月号 Vol.390
出征前の風景
当時本町通り沿いで洋服と家具の割賦販売を行っていた丸菱百貨店の当主(中央)が、出征する際に撮影された記念写真。
「武運長久」の文字とメッセージが書き込まれた日章旗を手に、誇らしげな顔で写る当人とは対照的に、取り囲む家族の表情が心なしか固いように見えるのは、複雑な心境が隠されているからだろうか。
市内一円均一の「円タク」と呼ばれたタクシー(写真左)も、時代の面影を偲ばせる。
写真提供 倉持 昌次氏 昭和15年頃

No.102 2006年6月号 Vol.391
貴族院議員当選の祝賀会
昭和6年、岩田三史氏が貴族院議員に当選したときの祝賀会の様子。
貴族院は昭和22(1947)年までの議会で、議員の種類には皇族議員、公・侯爵議員、伯・子・男爵議員、勅選議員、帝国学士院会員議員、多額納税者議員の六種があった。
岩田氏に始まり、昭和22年までに川口市(町)から当選した貴族院議員は計5名。いずれも多額納税者議員であった。
氏は昭和7年10月まで貴族院議員を務めた後、昭和8年に初代川口市長に就任した。
写真提供 岩田 健氏 昭和6年頃

No.103 2006年7月号 Vol.392
ふじの市商店街の七夕まつり
昭和27年から始まったふじの市商店街の七夕まつり。
現在の様子(=写真右)と比べると、周りの景色も道行く人も様変わりし、星霜の流れを感じさせる。
未舗装の道を往くリヤカー、割烹着を着た女性の姿・・・
何気ない風景を映した写真からは、昭和の生活の匂いが漂うようだ。
時の経過とともに、華やかさと賑わいを増したこのお祭りは、今年で45回目を迎える。
写真提供(株)日の出屋ペットショップ 島田 久雄氏 昭和37年頃

No.104 2006年8月号 Vol.393
社員旅行のひとこま
白井鋳工所(当主白井福蔵氏:写真右から2人目)が伊香保温泉への社員旅行を行った際のひとこま。
永年勤続の社員に懐中時計を贈るなど、福利厚生の面でも先駆的であった当社は、春と秋の年2回社員旅行を実施していた。当時としては珍しかったという。
後ろに写る大正9年建築の「横手館」は、大正ロマンの雰囲気を色濃く残し、老舗旅館として今なお多くの旅行者を迎えている。
写真提供 白井 博氏 大正12年頃

No.105 2006年9月号 Vol.394
大震災の爪あと
大正12年9月1日に発生した関東大震災は、多くの人的・物的被害をもたらし未曾有の大災害となった。
地震は小田原・根府川方面がもっとも激烈であったが、ここ川口でも影響は大きく、現在の川口市域でみると死者30人、負傷者78人、全壊975戸、半壊1,125戸の被害をもたらした。
写真は本町1丁目の岩田邸で、震災直後の倒壊の模様と、およそ1ヶ月後に撮影された復旧工事の様子。
写真提供 岩田 健氏 大正12年9月

No.106 2006年10月号 Vol.395
護国神社への献木
後楽園に護国神社が建設される際、東京盆栽協会が銀杏の大木を寄付することとなった。
写真は、協会から依頼を受けた安行の植木業者が、切り出した大木を馬に曳かせ納入した際のもの。
「安行」のブランド力を如実に映す大銀杏が、昔日の職人たちの揺るぎない誇りと気概を思わせる。
その後東京の護国神社は、戦災により焼失した。
写真提供 川口市 昭和13年頃

No.107 2006年11月号 Vol.396
合格苗の荷造り
「ANGYOブランド」として、国内はもとより世界にも古くから勇名を馳せた安行の植木。
輸出はすでに明治中期から始まっている。
中国大陸や朝鮮半島、遠くアメリカ、カナダ、イギリスなどへも輸出されたが、病害虫検査法がアメリカにおいて大正元年に、イギリス・カナダにおいて大正10年に制定されたことによって行きづまり、中国のみがその後も続いた。
写真は、安行の植物検査所にて苗に病気が付着していないかを検査し、合格した苗を荷造りしている作業風景。
後ろに写る薫蒸室は明治38年に安行村に設置され、その必要性から大正5年には戸塚、神根両村にも設置された。
写真提供 川口市 参考資料 埼玉県の安行、植木産業の歩み

No.108 2006年12月号 Vol.397
赤ちゃん会入賞者賞状授与式
昭和13年5月、川口市で「赤ちゃん会」が開催され、177人の元気な赤ちゃんが参加した。
写真は同月7日に隣保館にて開催された、入賞者への賞状授与式の様子。
2列目右から3番目、母の手に抱かれているのが、写真提供者・川上豊氏のお兄さんである昇さん。
男児・女児それぞれに一等から三等が設けられ、昇さんは見事一等を受賞した。
健やかに笑う赤ちゃんと、我が子を慈しみ抱く母の表情は、いつの時代も変わらない。
写真提供 有限会社川上木型製作所 川上 豊氏

No.109 2007年2月号 Vol.399
安行の植木屋でのひとこま
安行の植木屋でのひとこま
今現在では見ることの難しい光景である、わらぶき屋根の家屋に綺麗に生い茂る椿の庭。
当時、安行で指折りの植木屋であった田中一郎邸でのひとこま。
忙しい仕事の合間を縫って集まった家族の、植木のように瑞々しく純粋で真摯な眼差しが伝わってくる。
写真右に写っている五葉松は平成12年に保存樹木に登録され、今でもその変わらぬ面影を後世に残している。
写真提供 有限会社沖田園 沖田 雄司 氏 昭和15年ごろ

No.110 2007年3月号 Vol.400
安梅の木天神遷座祭
学問の神として本町1丁目にあった天神社は、昭和10年代に本町小学校の校庭へと遷座された。写真は、遷座祭の模様。
当時小学生から「梅の木天神」と親しまれていた。
現在はさらに川口神社の東北隅に合祀されている。
写真提供 岩田 健氏 昭和10年代

No.111 2007年4月号 Vol.401
錫杖寺への釣鐘堂寄付
初代川口市長岩田三史氏の祖父である岩田傳次郎氏が大正7年、錫杖寺へ釣鐘堂を寄付した際の写真。
錫杖寺の開基年代は不明であるが、室町時代の創建とも言われ、江戸時代には日光御成街道の道沿いにあったことから、御膳所として将軍立ち寄り所になっていた。
写真の銅鐘は、寛永18(1641)年に川口の鋳物師長瀬治兵衛守久によって鋳造され、現在は県の文化財に指定されている。戦後、釣鐘堂は建て替えられた。
写真提供 岩田 健氏 大正7年

No.112 2007年5月号 Vol.402
初吹の日の風
中青木にあった矢田部鋳機製作所が、幸町の吉田鋳造にキュポラを納めた際の写真。
いよいよキュポラを稼動させる‘初吹(はつぶき)’の日、祝詞をあげ無事を祈願する神主の姿も見える。
「新しい炉を設置し、うまく稼動しないと川口中の噂になってしまいます。
失敗は絶対に許されない。
固唾を飲んで初吹を見守るなかで、出てくる‘湯’(溶けた鉄)を見て職人さんたちが、『いい湯だね』と嬉しそうな顔をするのを目にしたときは、キュポラをつくる者として一番の誇りを感じたものです。」(矢田部氏)
緊張と期待の入り混じった職人たちの表情が並び、川口らしい光景を切り取ったこの一枚は、多くの職人が産業の発展を影で支えた、在りし日の町の原風景を留めている。
写真提供 矢田部 弘一氏 昭和38年頃

No.113 2007年6月号 Vol.403
川口神社への石鳥居の献納
社伝によると、平安時代の天慶年間(938-47)、武蔵一ノ宮大宮氷川神社より分祀勧請し、古くから崇敬をあつめたと伝えられる。
明治42(1909)年に、川口鋳物師の守護神であった金山神社を合社、氷川神社の社号を川口神社と改称する。
写真は合社の際、石鳥居を寄贈した有志と神官の記念撮影。
南面していたこの鳥居は、社地拡張に伴い東側に移設された。
写真提供:岩田 健氏 明治42年

No.114 2007年7月号 Vol.404
当時の安行における農婦の姿
安行の植木の歴史は古く、起源は380年ほど前まで遡ることができる。
その技術と品質は、国内を問わず海外にまで名を馳せている。
当時は植木業を営みながら、麦やサツマイモ等の農業も行っていた。
そのような時代における農婦の姿。
身に着けているものは、絣の半纏、湯文字に脚絆、地下足袋。
同じ農婦でもこの絣の半纏を着られるのはそれなりの家の者だけだったという。
当時の風俗を知る上での貴重な一枚と言える。
写真提供:有限会社沖田園 沖田 雄司 氏 昭和10年

No.115 2007年8月号 Vol.405
椎の木稲荷遷座祭
本来「稲生り」の意で農業神とされる稲荷社が、川口では古くから火伏せの神として各鋳物工場に祀られていた。
毎年三月初めの午の日は稲荷の縁日で、この日行われる「初午祭り」は火を生命とする鋳物師にとって厳粛で盛大な行事であった。
一年の安全を祈り交替で夜通し太鼓を叩き続け、勇壮な音色が町中に響きわたった。
江戸末の記録には「川口宿の宵宮の太鼓の音が、雲間に轟く雷の如く、海から聞こゆる潮騒の如く」であったとあり、その賑わいを伝えている。
写真提供:岩田 健 氏 昭和12年3月

No.116 2007年9月号 Vol.406
市議会議員選挙の遊説風景
昭和42年、川口市議会議員選挙の際の遊説風景。
沿道の人に手を振りながら、本町一丁目商店街を支援者らとともに歩く候補者。
道の両側には商店が賑やかに立ち並び、高度経済成長へと向かう、活気あふれる昭和のまちの風景を映し出している。
中央の候補者は、昭和56年から16年間川口市長を務めた永瀬洋治氏。
この時の市議会議員選挙では35歳にして初当選を果たし、政治の世界にその一歩を踏み入れることとなった。
写真提供:永瀬洋治 氏 昭和42年

No.117 2007年10月号 Vol.407
SNOクラブ
川口で最初の野球チームと言われるSNOクラブ。
明治44(1911)年頃、川口町在住の旧制浦和中学の通学生を中心に結成された。
メンバーは後に初代川口市長となる岩田三史氏や三代目市長永瀬寅吉氏をはじめ、昭和初期の川口政財界で活躍した人々の顔ぶれも見える。
後ろの建物は旧川口小学校(現本町小学校)。
写真提供:永瀬洋治 氏 明治44年頃

No.118 2007年11月号 Vol.408
川口市連合女子青年団
市制施行に伴い、昭和8年に川口市連合青年団が発足。
女子だけの青年団はそれより遅れて発足した。
写真は、戦地の兵士に慰問袋を送る作業をしている女子青年団の人たち。
中には缶詰やキャラメル、缶に入った飴玉などを詰めて送った。
青年団は年次を過ぎるごとに国家の戦時体制化のなかに組み込まれて行き、
昭和16年6月1日、川口翼賛青壮年団の発会に伴い吸収されていった。
写真提供:永瀬洋治 氏 昭和12年頃

No.119 2007年12月号 Vol.409
市庁舎前の永瀬庄吉翁銅像
昭和8年4月1日に川口市が誕生、はじめ市役所庁舎は現在の栄町公民館の位置にあったが、同10年7月に現在地である青木町に移転した。
銅像の背後の建物は、竣工したばかりの木造の市庁舎。銅像はその後、戦火の高まりとともに供出された。
永瀬庄吉は川口近代鋳物業の先駆者。経営する永瀬鉄工所は当初、薬研(やげん)(薬草を刻む鋳鉄製の器)を製造していたことから「やげんや」と呼ばれていた。
第三代川口市長を務め、川口商工会議所の初代会頭となった永瀬寅吉は庄吉の長男。
写真提供:岩田 健 氏 昭和10年11月

No.120 2008年2月号 Vol.411
焼失前の善光寺本堂
善光寺は、建久6(1195)年に定尊が開創したと伝えられている古刹。
この本堂は、浄土教寺院建築に禅宗様式が入った建物で、風格は江戸時代の寺院建築として、外観に顕著な特徴をもっていた。
昭和30年11月1日埼玉県有形文化財に指定されたが、昭和43年3月23日に災禍により焼失した。
現在は荒川土手のスーパー堤防工事の影響で仮建築となっており、工事完了を持って建て替えられる。
写真は焼失前の善光寺本堂。
写真提供:鳥海 歓彦 氏 昭和10年代頃

No.121 2008年3月号 Vol.412
紀元節の万歳
2月11日は旧暦の1月1日にあたるところから、紀元前660年の1月1日に神武天皇が即位されたという伝承に基づいて、紀元節という祝日とした。
1948年(昭和23)に廃止され、1967年(昭和42)からは新たに建国記念の日に制定された。
写真は舟戸っ原に集う市民たちの万歳三唱の様子。
当時川口町には広いスペースがあまりなく、何かというと町民はここに集まった。
写真提供:岩田 健 氏 昭和11年

No.122 2008年4月号 Vol.413
吉田権之丞追悼会
吉田権之丞は、承応年間(1652~54年)に、切り花や植木を江戸で売り出し、安行の名を広めた人物。さらに、明暦3(1657)年の振袖火事で焼け野原となった江戸の町に、植木や花を出荷して成功し、これを機に近隣農家にも植木業が広がったと言われている。
写真は、昭和10年4月19日に開催された追悼会の様子。安行吉岡にある金剛寺墓地には権之丞の墓(市指定文化財)と言われるものがあり、これによると元禄16(1703)年7月1日に没している。
写真提供:川口市 昭和10年4月

No.123 2008年5月号 Vol.414
友愛会の集合写真
本町二丁目にあった鋳物工場での友愛会の集合写真。栗豊鋳物工場の得意先や取引先を集めて作った会で、たびたびバス3台を連ねる大所帯で筑波山などに旅行したという。
子供から大人まで、そろいの工場の法被を着て、皆どことなく誇らしげな顔を見せている。子供たちは、幼い時期から親元を離れ、鋳物工場で奉公人として働いていた時代であるが、たくましく闊達な顔つきである。
一番左の人物が初代社長であった栗原豊治氏である。
写真提供:栗原豊氏 昭和10年頃

No.124 2008年6月号 Vol.415
本町二丁目鋳造部会
本町二丁目にあった鋳物工場の社長達で結成した鋳造部会での旅の写真。後ろに見える建物は、栃木県にある日光東照宮の表門(仁王門)である。鋳物工場の社長総勢17名で美しい秋の紅葉を眺め、親睦を深めた。
写真提供:栗原豊氏 昭和16年10月23日

No.125 2008年7月号 Vol.416
大正初期の早船家
早船家は、戸塚村で江戸時代から代々続いた名主。戸塚村は江戸期から明治22年(1889年)までの村名であった。
写真は当家7代目の早船鹿 之助氏邸で、建物左側から母家、隠居場、接見場と並んでいる。門の前に立っている人物は 、右側が当時の当家5代目で隠居の早船常吉氏であり、隣にいるのが長男の早船斌男(よしお)氏である。
写真提供:早船雅文氏 大正初期

No.126 2008年8月号 Vol.417
昭和40年代の青木町公園市民プール
埼玉国体を開催するにあたり、天皇皇后両陛下(当時の皇太子ご夫妻)が川口市内を巡幸され、青木町公園市民プール(青木町公園総合運動場プール)にご訪問された。
写真は当時の開催式典の様子。
写真提供:川口市

No.127 2008年9月号 Vol.418
敬老の日感謝会【昭和40年代】
市民会館の地下で、「祝 長寿 敬老の日感謝会」が開催されたときの様子。挨拶しているのは、当時川口市長であった大野元美氏。
大野氏は、通算6期川口市長を務め、第4代川口商工会議所会頭にも就任され、終生地方自治に尽くされた。
写真提供:川口市

No.128 2008年10月号 Vol.419
川口市立北中学校【昭和25、27年】
昭和22年、終戦直後の混乱の中で、生徒数160人という規模で川口市立北中学校が根岸地区で開校した。その後、昭和47年に現在の地に移転しながらも60年の歴史を有している。
文化やスポーツ振興に力を入れており、スポーツでは数々の部で全国大会に出場し吹奏楽部も輝かしい成績を上げている。また卒業生には読売巨人軍で投手として活躍した齋藤雅樹選手がいる。
写真提供:川口市立北中学校

No.129 2008年11月号 Vol.420
川口市内の研究施設【昭和13年頃】
国立(当時の工業技術庁)燃料研究所は大正9年10月に設立され、通称「燃研」と庁舎の時計台の「葉巻き塔」によって親しまれた。他の研究所とは異なり研究所内に工場的な設備を兼ね備えており、石炭油化、木炭ガスなどの研究成果を直ちに役立てるために使われた。研究所は昭和55年に移転し、現在の地には川口西公園や川口総合文化センター・リリア、高層住宅団地リプレなどが立ち並んでいる。
写真提供:鳥海 歓彦氏

No.130 2008年12月号 Vol.421
第24回関東市長会議【昭和15年頃】
川口市役所会議室で行なわれた関東市長会議で、当時の川口市長であった高石幸三郎氏が挨拶している。このころの市役所は木造の建物で明かり取りの丸窓や電球などがその時代を偲ばせている。昭和15年4月1日に鳩ヶ谷町、神根村、新郷村、芝村の1町3村が川口市と合併し、当時の人口は97,115人、面積は48.64k㎡だった。
写真提供:川口市

No.131 2009年2月号 Vol.423
NHK川口放送所【昭和13年頃】
2003年にオープンし、次世代映像産業の拠点となっているSKIPシティに、かつてNHKのラジオ放送所があった。川口放送所は新郷放送所の15倍(1500kw)の出力に設計され、当時、2本立っていたアンテナ鉄塔は、エッフェル塔を超える世界一の高さ(312.8m)を誇り、川口市のシンボルのひとつとなっていた。
写真提供:NHKアーカイブス

No.132 2009年3月号 Vol.424
大山萬国忠霊塔 【昭和33年頃】
かつて川口市寿町にあった川口を代表する鋳物工場の白井鋳工場が、金山町の木型屋と川口塗装と協力て作成した大山萬国忠霊塔は、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社境内に奉納され、2008年に50周年を迎えた。
大山にはケーブルカーが走っているが、戦時中には鉄の供出に伴いなくなってしまったが、戦後に復活したというエピソードがある。
写真提供:白井 博氏(写真は平成11年5月に撮影したもの)
何気ない風景もいつしか輝きを増す
商工会議所の会員向け広報誌『move』で掲載され、好評だった「一葉の写真」をまとめてみました。
川口市の懐かしい風景、若かったころのあの人など、思い出の一枚です。
※無断転載禁止 写真を使用する場合はご連絡ください。
連絡先:川口商工会議所 move編集担当
TEL:048-228-2220